いまごろだけども やっぱり 新聞とかも 地元って
あいが あって だよなぁと じつは おもうことが あってで
あるとき ここの存在を しってで おぉって 思ってで
やっぱり スケート王国と いわれての ところは ちがうなぁ
と 思いながら この中の ひとつ だけは 前に 載せたことが
あって だけども ソチの特集みたいな ところが あってを 知ってで
おととい 見つけて 今日は 書くぞぉと 思ったら 思いがけず
時間が かかってで いまごろに なって ごめんなさいです
いまごろ だけども 知ってのかたは 知ってらっしゃるとは おもって
だけども 真央ちゃんの 記録として やっぱり 書いておくことに してです
母の優しさに包まれて
2014年2月8日
受話器越しの声は今も鮮明によみがえる。
2010年3月。浅田匡子(きょうこ)さんとの会話は、
自然と閉幕したばかりのバンクーバー冬季五輪へ及んだ。
初の五輪に臨んだ当時19歳の次女の真央が、フィギュアスケート女子で銀メダル。
○○に敗れ流した大粒の涙が忘れられないと伝えると、匡子さんは笑いながら答えた。
「悔しかったけど、でも金メダルを取れなくて良かったんじゃないかな。
取っていたら、真央はスケートをやめてしまったかもしれない。燃え尽き症候群ってやつ」
良かったなんて、そんなはずはない。
まな娘とともに立ち上がり、前に進もうとする母親は、こう続けた。
「成人するまでが親の役目だと思っているの」。
20代で初めて迎える次の五輪へと視線を向けていた。
「あのころは楽しかったね」。明るい声は昔話へと進む。
記者がフィギュア担当だったのは06年3月までの2シーズン。
取材現場に常に現れていたのを、真央が最初は不気味がっていたと明かした匡子さんは、
ケラケラと笑い「それ今度、真央が金メダル取ったら書きなよ。絶対に面白いよ。
金メダル取ったら絶対に1面に書いてね」。からかいながら繰り返した「金メダル」が記憶に残る。
そんな記事を書き、読んでもらえると疑わなかった。
11年12月、48歳の匡子さんは永眠した。
亡くなる前年、真央が20歳の誕生日を迎えた9月に一通の手紙が届いた。
父親となっていた記者に、匡子さんはこう語り掛けてくれた。
「あの真央も20歳になりました。時のたつのは早いね。
子どもさんを育てていくことにより、また違う自分を発見されたと思います。
守るものがあるっていいですね」
ソチ五輪が開幕した。真央は集大成のリンクに一人立つ。
強くて厳しくて、そしてどこまでも優しかった匡子さんの、無尽の愛に守られながら。
(高○隆太郎)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014020802000211.html
4年間の苦難を自信に変えて ニュー真央輝く日
2014年2月8日
銀メダルを首に涙を流してから、数時間しかたっていなかった。
「やるなら今しかない。すぐ取り組みたい」。
2010年バンクーバー五輪のフリーを終えた夜。浅田真央選手(23)=中京大=は
ジャンプの修正のため滑りを一から見直すと決めた。
ソチ五輪ではまず、8日(日本時間日)の団体女子ショートプログラムに出場する。
基礎から技術を磨き直したこの4年間。
順調に歩みながら五輪を前にジャンプの調子を崩したバンクーバーまでとは違い、
苦しみからスタートした。
「もう大人なので、軽々と跳んでいた子どものころとは体つきも違う」。
19歳で迎えたバンクーバー五輪でさえ、以前と同じ感覚では跳べない状態。
技術を研ぎ澄ませてトリプルアクセルを3回決めたものの、ソチへの再スタートのためには
新たな挑戦が必要だった。
そのオフから佐藤信夫コーチに師事。
より速さの出る滑りを目指す作業は、それまでの技術を一度白紙に戻すことでもあった。
佐藤コーチは野球に例えたことがある。
「右投げの投手が3年半で左投げに変えられるか。
時速80キロでいいならできても、プロは150キロ。
それに近いことに彼女は耐えてきた」
スケート関係者の誰もがたたえる努力家。
結果が出ない時期でも「時間はかかる。信じて練習を続ければ大丈夫」。
いつでもリンクに答えを探してきた。
日本中の期待を受け、世界の注目を浴びながら戦い続けて、新しい滑りで再び五輪の金メダルを
狙うところまで力を伸ばしてきた。
唯一欠場した試合が、母の匡子さんの体調が急変したためカナダから帰国した
11年のグランプリ(GP)ファイナル。
選手生活を支えてきた母を亡くし、一時は「フィギュアをやめたいと思った」ほどの悲しみを背負った。
喜びも苦しみもあるスケート人生の集大成として臨む五輪だから、いまはこう考えている。
「どきどきもわくわくもある。
いろいろ詰まっているけど、リンクに立ったら練習通りできることを考えるだけ」と。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014020802000250.html
真央、苦い滑り出し 団体女子SP
2014年2月10日
ほろ苦いソチでの初滑りだった。
八日(日本時間九日)のフィギュアスケート団体女子ショートプログラムに出場した
浅田真央選手(23)=中京大=は、代名詞のトリプルアクセルで転倒するなど十人中三位。
「思っていたより緊張した」とうつむいた。
それでも試合後は会場に残り、チームの応援に声をからした。
会場を覆う異様な空気にのまれてしまった。
直前に滑った地元ロシアのリプニツカヤ選手が好演技。
地鳴りのような歓声とウエーブまで起こる客席に、試合後の浅田選手は
「リンクに乗った途端、自分の気持ちをコントロールできなかった」と悔やんだ。
ソチで初採用された団体は、楽しみにしていた舞台の一つだった。
小学校時代の思い出は運動会のリレーでクラス代表として走ったこと。
フィギュアは氷上の孤独な競技だが、もともとは大勢で一つの目標に向かうのも好きな性格だ。
「個人戦に影響する」という関係者をよそに「五輪で滑る機会が増える」と前向きだった。
それだけに、自分の力を出し切れなかった演技に「(チームに)ごめんなさい」。
鈴木明子選手(28)=邦和スポーツランド=らに背中をぽんとたたかれると少し笑顔を
取り戻し、前を向いた。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014021002000194.html
大技転倒、真央SP3位
2014年2月10日
2度目だから分かる五輪の怖さなのか。
ソチでは終始柔らかな笑顔を見せていた浅田を、演技当日の昼に緊張が襲った。
「思っていた以上だった。やることはやってきたから、あとはやるだけだと思ったけれど」。
本番前の6分間練習では「すごい、バンクーバーみたいな感じだな」。
4回試みたトリプルアクセルは一度もきれいに決まらず、同じグループでは最後まで
氷の上で跳躍に入る体の動きを確認した。
4年ぶりの高揚と緊迫。しかし夢中で駆け抜けた前回の五輪とは違いがあった。
団体戦で日本をフリーに導くという役割に加え、佐藤信夫コーチは突然の緊張の理由をこう推測した。
「やはりトリプルアクセルが大きいのでは」
4度の公式練習では計18回跳んで9回着氷。
調子の良さをうかがわせていたとはいえ、確率は五分五分。
今季はまだ一度も試合できれいに決めていない。
4年をかけて修正してきた技術の全てをかける大技への思いが、そのまま緊張に転じた。
直前にロシアのリプニツカヤが滑り、フェンス越しに話し掛ける佐藤コーチの声も聞き取りにくいほどの
歓声の中でリンクへ。硬さの残る動きからのトリプルアクセルは、完全な回転不足で転倒となった。
2分の1以上、回転が足りずにダブルアクセルの基礎点となるのは、2012年世界選手権のSP以来。
スピン、ステップでもレベルを取りこぼし、技術点は6位に沈み、演技構成点を合わせて3位に終わった。
19日の女子シングルSPまでは一度ソチを離れ、日本スケート連盟がアルメニアに設けた拠点に移る。
どう調整するか問われると「これからよく考えます」と繰り返した。練習の動きがいい以上、あとは気持ち。
集大成を見せる演技に向けて、心の中で最後までトリプルアクセルと向かい合う。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014021002000191.html
「日進月歩」真央フィナーレ 20日SP
2014年2月17日
国民的ヒロインが集大成へと跳ぶ。
19日(日本時間20日)のソチ五輪フィギュアスケート女子ショートプログラムに臨む
浅田真央(23)=中京大。
天才少女と呼ばれた小学生時代から日本中の視線と期待を細身の体に背負い、
時に挫折を味わいながら ソチまでの道を歩んできた。
華麗な演技と天衣無縫のキャラクターは、2度目の五輪で最高の笑顔を咲かそうとしている。
「なぜこんなに表情が柔らかいんだろう」。
フリーの写真家としてフィギュアを30年近く撮り続けている菅原正治さん(60)は、
レンズ越しに初めて浅田を見た日のことを覚えている。
小六のころの小さなアイスショーだったが、観衆を前に氷上ではたった一人。
「なのに彼女は笑顔だった。
表情の硬い日本選手にはいない、特別な存在が出てきたと思ったよ」
実際、12歳で大技トリプルアクセルを決め、「いつか五輪に出たいです」と
はにかむ浅田に世間は夢中になった。
15歳で迎えたトリノ五輪に年齢制限で出られぬ姿には、
当時の小泉純一郎首相まで「どうしてか」と異例のコメントで同情。
同五輪で金メダルに輝いた荒川静香さんとともに、フィギュアを
国民的な人気スポーツへと押し上げた。
天真らんまんな発言も愛されてきた。
14歳、国際大会で優勝した際は「これでトイプードルを買ってもらえる」。
23歳になった今も、
「得意なスポーツはバスケ。苦手なのは球技」と真顔で言い、図らずも笑いを誘う。
マットレス、カメラ、ハム…。浅田を広告に使った製品は軒並み売り上げを伸ばした。
ただ、何より共感を集めてきたのは、スケートへのひた向きな姿勢だった。
「日進月歩」。浅田がファンへのサインによく書いてきた言葉だ。
スポーツ選手の発言などを心理学的に研究する児玉光雄・追手門学院大客員教授(66)は、
「うまくなりたい、うまくなると快感だという気持ちが強く、それを毎日確認したい選手。
だからこそ、スランプや不運があっても厳しい練習を続けられる」と見る。
王貞治さんやイチローにも通じる超一流の特徴だという。
銀メダルに涙を流したバンクーバー五輪から4年。
今大会は団体戦で3回転半ジャンプをミスするなど苦い滑り出しとなったが、
「一つ一つ階段を上っている」という今季の浅田。ソチでのステップを、列島中が見つめる。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014021702000223.html
決戦、普段の真央で
2014年2月19日
決戦が近づき、トリプルアクセルの精度は確実に高まってきている。
団体戦のSPに出るまで、浅田はソチの公式練習で18回跳んできれいな着氷は9回。
いったん五輪の地を離れ、再び戻ってからは26回跳んで15回着氷した。
「それがあったから、自分も強くいられる」というトリプルアクセル。
本番直前の張り詰めた思いは、18日の公式練習からも伝わってきた。
最初の一発を跳んだ後は回転しすぎる場面が目立ち、その後の4回ではきれいな跳躍がなかった。
「やはり試合になると、どうしても力が入る」というのが佐藤信夫コーチの懸念。
試合で着氷しても、たびたび回転不足に悩まされてきた。
この数日は、これまでの試合に比べてしっかりと回転した跳躍がほとんど。
「緊張した」という団体戦の反省を踏まえて、あとは普段通りに試合の場で跳べるか。
成否の鍵はその一点にかかると言っていい。
トリプルアクセルが決まれば一気に乗るのが浅田。4年前も今でも変わらない。
「自分の演技に集中したい。できるという気持ちを持ってやることが一番大切」。
信じる心が、浅田を高く跳び上がらせる。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014021902000252.html
約束の輝きを真央の母に 佐藤信夫コーチ
2014年2月20日
銀の涙から4年。
ソチ五輪のフィギュアスケートにいよいよ浅田真央選手(23)=中京大=が出場する。
リンクの「国民的ヒロイン」を見守ってきたのは、今は亡き母・匡子さんの熱意に動かされ、
バンクーバー大会後の指導を託された佐藤信夫コーチ(72)だ。
どれほどの覚悟を固めた上での言葉か。
佐藤コーチは「まともに話すのは初めて」という相手から、すぐに感じ取った。
「とにかく見てください。すぐに結果を出してほしいとは思っていません」。
バンクーバー五輪を終えたオフの2010年夏。
新横浜スケートセンターで、匡子さんから、コーチへの就任を依頼された。
「体調の話はひと言もしていないし今も正確には理解していない。
けれど痛いほどわかった。
自分の寿命をきちんと読んでいらした、と私は受け取っている」
匡子さんは浅田選手が小さなころから、フィギュア選手として大きく育つため
全ての環境を整えてきた。
リンクサイドから見守るだけでなく、時に独学で学んだ技術指導もしたが、
バンクーバー五輪のころから「私はもうあまり前に出ないから」。
練習や普段の生活でも、浅田選手の自主性に任せる部分が増えた。
以前は長く海外のコーチに師事。
移動の負担や、常に指導を受けられない点など不安もあった。
この時点で選手時代と合わせ十回の五輪経験を持つ佐藤コーチ。
受けた依頼に
「自分がもしいなくても安心して競技に打ち込めるように」という匡子さんの願いをくみ取った。
それでも引き受けるまで「それは迷った。あれだけの選手を途中から教えるのはこちらにも冒険」。
最後は匡子さんの熱意に打たれた。
「あまり話したことがないと思っていたのに、先生は以前、引き受けてくれるって言いました、
と何度も念を押されて」
11年12月、匡子さんは体調を急変させ、肝硬変のため48歳で亡くなった。
その後のシーズンオフに「フィギュアをやめたい」と漏らした浅田選手に、
佐藤コーチは「休んで、戻りたくなったら戻ってきなさい」。
じっと気持ちが競技に戻るのを待った。
「ソチ五輪まで、長く見てください」。いよいよ迎えた大舞台。
匡子さんから4年前にそう託された約束のリンクサイドで、浅田選手を見守る。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022002000234.html
心はフリーに 真央「自分の演技する」
2014年2月20日
五輪の魔物、と片付けるにはあまりに無情な一夜だった。
19日のフィギュアスケート女子ショートプログラムで、浅田真央選手(23)は
演技が乱れ、16位とまさかの出遅れ。
「緊張で体がうまく動かなくなった」と涙をこらえた。
鈴木明子選手(28)、村上佳菜子選手(19)もミスが出て、会心の笑顔は影を潜めた。
日本勢の活躍を信じ、会場や地元で応援した人たちは「フリーで悔いのない演技を」と願った。
フィギュア選手が演技後に得点を待つ「キス・アンド・クライ」。
スケーターたちが好演技にコーチと抱き合い、時に涙するその席で、
浅田選手はほとんど動くことができなかった。
55・51点。トップの選手を20ポイント近く下回る得点に、表情までが凍りつく。
その後もしばらく立ち上がろうとせず、佐藤信夫コーチに促されるように舞台裏に消えた。
フィギュア団体戦の時と同じく、直前にロシア選手が最高の滑りを見せた。
鳴りやまない「ロシア」コールと大歓声。
「同じ失敗は繰り返さない」と、雰囲気にのまれた団体戦の雪辱を胸に秘めたが、
悪夢はよみがえってしまった。
「緊張で体がうまく動かなくなった。今まで、それでもできたのに」。
4年前のバンクーバー五輪や毎年の世界選手権。
少女時代から数々の大舞台を経験したヒロインが最後に迷宮にはまった。
「自分でも、まだ何も分からない」。
試合後はすぐに演技を振り返り、次への課題を口にする普段の姿も消えていた。
バンクーバー五輪から、スケートを一から見直して臨んだソチ五輪だった。
ひたすら氷と向き合い、金メダルだけを目指してきた。
だが、糧にしたバンクーバーの経験も
「(雰囲気など)分かることはたくさんあったが、逆に良い方向にいかなかった」
と考えすぎが体を硬くしていた。
青春のすべてをスケートにささげた23歳に訪れた、あまりにも酷なソチの試練。
「明日は自分の演技をできるようにしたい」
声は震わせても、最後まで涙は見せなかった。金メダルの重圧はもうないはず。
最後はただ、その強い心を氷上で出し切るだけだ。
(ソチ・杉○貴浩)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022002000291.html
真央、歴代コーチとの歩み
2014年2月21日
浅田真央の輝かしい競技生活は、さまざまな指導者に支えられてきた。
15歳でいきなりグランプリ ファイナルを制するなど、世界に飛び出すまで
導いた山田満知子コーチ(70)。
2010年バンクーバー五輪でトリプルアクセルを3回決め、銀メダルを取るまで
指導したロシア人のタチアナ・タラソワ・コーチ(67)。
再び日本に拠点をすえ、滑りを基礎から見直させてきた佐藤信夫コーチ(72)。
それぞれの時代を見てきた担当記者が、コーチと浅田の関係を振り返る。
◆山田満知子氏
◆天才少女 伸び伸び開花
「ちょっと見てきてくれないかな」。
カナダ・キッチナーのホテルのロビーで、山田コーチは心配そうな表情を浮かべていた。
2005年3月のジュニア世界選手権。リンクへの出発時間になっても、浅田が現れない。
記者がフロントに確認すると、しばらくして登場。「テレビ見てたの」。
部屋でお気に入りの米国アニメに熱中していたとあっけらかんと打ち明けた14歳に
山田コーチはただ苦笑した。
フィギュア界の重鎮をも振り回す天才少女。
そんな表面上のユーモラスさとは少し違う2人の関係を、その後の取材を通して知る。
伊藤みどりさんらを育てた名コーチは、しかし自らを「普及型のコーチ」と呼ぶ。
トップ選手の育成よりも、子どもたちにスケートの楽しさを教えることを使命に感じる。
「華やいでいるわね」。
技術以上に、フィギュア本来の魅力を伝えようとする山田コーチらしい常とうの褒め言葉だ。
大きな器の中で浅田は、天真らんまんさを失うことなく伸び伸びと才能を開花させた。
迎えた05年12月のグランプリ ファイナル。
世界一へ駆け上った15歳は、笑み満面の山田コーチに抱きしめられた。
極上の幸福感が、あの時代の浅田を育んだように思う。
(高○隆太郎)
◆タチアナ・タラソワ氏
◆表現力 ステップアップ
バンクーバー五輪までの道のりも結果も、望んだものとは違ったかもしれない。
日本とロシアの往復、コーチの健康問題もあった。
極度のスランプも味わい、涙の銀メダル。ただ、これだけは言える。
タラソワ・コーチと出会い、浅田の演技は大きく変わった。
2007〜08年シーズンに初めてSPの振り付けを担当し、08年から
コーチとして指導した。
「一番大切にしているのが音楽。次に振り付け、動き。選手の動きは音楽から生まれてくる」。
タラソワ・コーチにとってフィギュアはスポーツというより芸術。
浅田に本場ロシアでバレエを学ばせ、表現力に磨きをかけた。「恋をしなさい」。
そんなアドバイスを送ったこともある。
それまでの浅田といえばジャンプが武器だったが、
ステップでも会場を沸かせるようになったのは、このころ。
浅田は「ステップは一段と評価してもらえるようになったし、違った自分を出してくれた」
とタラソワ・コーチの指導を振り返る。
「自分の作品を演じられる人しか教えない」と決めているタラソワ・コーチが、
自ら「プログラムをつくりたい」と申し出たのが浅田だった。
「技術も表現も高いレベルを維持することは真央しかできない」と認めている。
選手とコーチの関係はバンクーバー五輪後に解消したが、今季もフリーの振り付けを担当。
4年前と同じラフマニノフの曲で挑むのは、偶然ではないだろう。
「ピアノ協奏曲第2番」に、雪辱の思いは宿る。
(中○彰宏)
◆佐藤信夫氏
◆一流同士 ぶつかり成熟
指導を始めた時点で浅田は19歳、佐藤コーチは68歳だった。
最初にした約束が「週に1回は必ず休む」。
年齢を重ねるにつれ、体には確実に疲れがたまりやすくなる。
どれだけ休みを取らせるかが、4年間を通して一つのテーマだった。
昨季に続いて腰痛に悩まされた昨年12月の全日本選手権の前。
「正月に1週間は休もう」と諭す佐藤コーチに、浅田は「そんなに休めません」。
練習を続ける日々こそが技術を支えると信じる。「じゃあやってなさい、と話をぶん投げた」。
佐藤コーチが怒っても、氷に乗らなかったのは例年通り、元日などわずかな日数だけだった。
それぞれに経験則を持つ超一流同士。意見がぶつかる場面も多かった。
「互いに怖かったのを、よく耐えてきた」と佐藤コーチ。
浅田は新しいものを取り入れる怖さに、佐藤コーチは浅田の良さを消しはしないかという怖さに
耐えながら。少しずつ信頼を育み、今でもぶつかり続けている。
指導者として一番の喜びは
「本当のスケートの味を引き出して見ている人をうならせたら、心の中でしてやったりと思う。
それができれば、順位は関係ないんです」。
滑りを基礎から見直してきた4年間の指導で、浅田の滑りは確かに変わった。
世界中の人をうならせる力があると、佐藤コーチが一番信じているだろう。
(海老○徳馬)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022102000222.html
それでも前へ跳ぶ
2014年2月21日
ソチ最後の舞台は、何より愛した大技でまっとうした。
フィギュアスケート女子ショートプログラムで転倒し、致命的な出遅れを招いた
トリプルアクセル。
浅田真央は20日(日本時間21日未明)のフリー演技で、自身の代名詞とも言えるジャンプに
トップ選手の誇りをかけて再び挑み、決めた。ただ跳ぶのが楽しく、重圧知らずだった少女のころのように。
表情は柔らか、どんな質問にも和やかに答える浅田が、珍しくきっぱり言い切ったことがある。
「今の時代、ジャンプだけじゃないって言われますけど、やはりジャンプが一番大事だと思います」
昨年十月、ソチ五輪へ向けて大切なものを報道陣から問われた時のこと。
ジャンプ、とりわけ最高難度のトリプルアクセルは、何を差し置いても貫きたいという宣言だった。
「自分にしかできないことだから」
実際、ソチ五輪でも多くの女子選手が難度の高くないジャンプで手堅く得点する中、
これまで挑戦したのは浅田だけだ。
フィギュアに六種類あるジャンプの中で、アクセルは唯一前向きに踏み切る特別な技。
かつて五輪の舞台でトリプルアクセルを成功させた伊藤みどりさん(44)は、
「前に向かって跳ぶというのは、見かけよりすごく勇気がいる。
フェンスや観客に飛び込んでいくような怖さがある」と語る。
浅田はそんな難技を12歳で成功させ、体の成長で回転力が減じても決して逃げようとしなかった。
繰り返す好不調、銀メダルに泣いたバンクーバー五輪、そして母の死…。
トリプルアクセルは、多くの挫折や困難に真正面から向き合ってきた半生とまさに重なる。
「初めて跳んだ時は、もう、うれしかった」「トリプルアクセルは、真央の一番の武器」。
そう語りながら、いつもリンクで笑っていられた十代のころ。もうメダルは気にしなくていい。
最後に、あの姿がよみがえった。浅田真央の集大成を示してくれた。
(ソチ・杉○貴浩)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022102000214.html
真央、最高の演技 最後は笑顔で6位
2014年2月21日【ソチ=本社五輪取材団】
ソチ五輪第14日の20日、フィギュアスケート女子フリーで、
前日のショートプログラム16位と大きく出遅れた浅田真央(23)=中京大=は
トリプルアクセルを含めすべてのジャンプをほぼ完璧に決め、フリー3位となる
自己最高の142・71点をマーク。合計198・22点の6位まで順位を上げた。
首位は地元ロシアの17歳、アデリナ・ソトニコワ。
SP2位からフリー1位の149・95点の合計224・59点を出して、
SP首位を逆転。この種目でロシア勢初の金メダルを獲得した。
○○は2位で2連覇を逃した。3位はカロリナ・コストナー(イタリア)。
鈴木明子(28)=邦和スポーツランド=は6位で2大会連続入賞。
村上佳菜子(19)=中京大=は12位だった。
今大会の日本のメダルは8個となり、1992年アルベールビル五輪の7個を上回り、
海外の五輪で最多となった。
◆「自分を信じて、跳ぼう」
ソチの氷上に本当の浅田真央が戻ってきた。
ピアノ協奏曲に乗った華麗なトリプルアクセル、そしてはじけるような笑顔とともに。
「最後の最後まで、思いを込めて滑ろう」。
ラストポーズを決めると、天を見上げ、あふれる涙を隠そうとしなかった。
「最高の演技ができた」
ずっと悩んでいた。「自分の気持ちがコントロールできない」。
前回五輪の経験や4年間の練習を生かそうと思うほど不安の迷路にはまり、寝付けなかった。
そんな浅田を救ったのはファンや関係者たち。
いくつもの激励の言葉、「真央ちゃんの笑顔が見たい」とのメール。
佐藤信夫コーチからは「何があっても先生が助けにいく」と背中を押された。
そして覚悟を決めた。
「自分を信じてやるしかない。昨日みたいになっても、とにかく跳ぼう」
フリー演技は自己最高の142・71点。
一時は首位に立ったが、高得点をマークしたソトニコワや○○に抜かれた。
試合後の胸元に金色の輝きはない。
だが、試合後の浅田は穏やかな笑顔で言った。
「メダルとして残すことはできなかったけど、支えてくれた方々に恩返しができた」
みなに愛されたヒロインは、ソチのリンクに自分だけの着地点を見つけた。
(ソチ・杉○貴浩)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022102000264.html
3回転半「よしっ」 真央、大人のジャンプ
2014年2月21日
女子のフリーで、ショートプログラム(SP)16位と大きく出遅れた
前回銀メダルの浅田真央(中京大)は、トリプルアクセルを決めるなど、
フリー3位となる自己最高の142・71点をマークし、合計198・22点の6位まで順位を上げた。
SP2位のアデリナ・ソトニコワがフリー1位の149・95点の合計224・59点を出し、
逆転でこの種目ロシア勢初の金メダルを手にした。
SP首位はフリー2位で、合計219・11点の2位となり、2連覇を逃した。
3位はカロリナ・コストナー(イタリア)で、15歳のユリア・リプニツカヤ(ロシア)は5位。
SP8位の鈴木明子(邦和スポーツランド)はフリーも8位の125・35点の合計186・32点で8位
となり、2大会連続の入賞。
SP15位の村上佳菜子(中京大)はフリー12位の115・38点で、合計170・98点の12位だった。
◆「自分の中の最高の演技」
最後のチャンスだった。フリーで跳ぶのは1度だけと決意したトリプルアクセル。
団体戦、シングルのSPと転倒した大技へ向かう浅田の心は晴れやかだった。
「緊張はあるけれど、このままいける」。
スピードに乗って踏み切り、空中で3回転半。しっかり回って滑らかに降りた。
まだ客席の雰囲気も盛り上がり切らない早い出番。
場内のざわつきも、重く響くラフマニノフの壮大な旋律も、大歓声にかき消された。
4年をかけて佐藤信夫コーチと滑りを基礎から見直してきた。
不調に陥ったジャンプを修正するため。
軽々とアクセルを跳んだ少女のころから、年齢を重ねるにつれ体は大きくなる。
以前の跳び方はできなくなっていた。
スピードが途切れないよう、上下動の少ない滑りを身に付けてきた。
空中で素早く、きれいな軸をつくるうまさは元から持つ浅田。
踏み切りの大きな動作で生み出していた回転力を、速さから生み出せるようになった。
体重を40キロ台後半に保とうとこだわるあまり、6位に終わった2011年世界選手権では
力強さが失われていた。
佐藤コーチが「ある程度はパワーも大事」と説き続け、いまは「それほど気にしなくなっている」。
今季からは体幹を意識した筋力トレーニングにも取り組んできた。
速さと力、回転の技術がそろった以前とは違う大人のトリプルアクセル。
昨年の四大陸選手権のSP以来、今季は初めて成功させた。
「自分の中の最高の演技ができた」。懸けてきた思いの強さが、演技を終えた瞬間に涙をあふれさせた。
メダルには届かなかったが、最後の機会を実らせてトリプルアクセルを決めた。
バンクーバーではミスの出た他のジャンプも納得の出来。
「最後の2発はバンクーバーがすごいよみがえってきた。自分へのリベンジはできたと思う」
何度となく失敗しながら挑み続けてきた、世界で1人しか跳べないトリプルアクセル。
浅田の持つ最高の技術は、世界中のファンの記憶に刻まれた。
(海老○徳馬)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022102000261.html
「私は真央の一番のファン」 母へ胸打つ演技
2014.2.22
二人で夢見た金色のメダルには届かなかった。晴れやかな表彰台に上ることもない。
それでも日本中を感動させる演技ができた。
集大成の思いを込めた舞を、母はどう見てくれただろう。
20日のソチ五輪フィギュアスケート女子フリー。
自己最高点を出し6位になった浅田真央選手(23)は、ここまでの道のりを、
ずっと亡き母、匡子さん=享年四十八=と歩んできた。
浅田選手がスケートを始めたのは5歳のころ。二つ年上の姉、舞さんと名古屋市のリンクに通い、
姉妹で競って成長した。自身もフィギュアが好きだった匡子さん。その献身ぶりはすごかった。
夜中まで滑り込んだ娘をワンボックス車の後部座席を倒して寝かせ、ともに一夜を明かすと
「朝からリンクが予約できたよ」とそのままハンドルを握り別のリンクに行くことも。
ストレッチの相手も務め、長時間のマッサージも欠かさなかった。
そんな母に応えるようにトップへの階段を上った浅田選手。
12歳で大技トリプルアクセルを決めると、匡子さんもガッツポーズ。
大きな大会で優勝していくたびに言った。「私は、浅田真央の一番のファンよ」
その二人三脚が見られなくなったのは4年前のバンクーバー五輪後。
20歳になる娘を自立させようとした以外、理由はもう一つあった。
肝臓を患っていた匡子さんの体調悪化だ。
別れが訪れたのは2011年12月。
「お母さん、真央だよ、真央だよ」。
遠征先のカナダから病院へ駆けつけた娘に、母の目が開くことはなかった。
以来、浅田選手は公の場で母のことをほとんど口にしなくなった。
「もうスケートをやめたい」と道を見失いそうになったこともある。
だが、そのたびに頭に浮かんだのは母の顔だった。
匡子さんの知人の一人は、彼女の体調が悪化したころに受け取ったメールを覚えている。
「スケートには、必ず心が現れます。
だから、真央にはずっと心清らかにいてほしいんです」
非情な勝負の世界だ。勝てば称賛され、負ければ時にいわれなき批判も浴びる。
それでも浅田選手は、母の思いを守るように、ファンに笑顔を振りまき、
たとえ敗れても自分に一切の言い訳を許さなかった。
「心清らかな滑り」。
大きなミスにつまずきながら決して投げ出さず、最高のフリー演技につなげたソチ五輪。
浅田選手は涙を浮かべ言った。「支えてくれたみんなに恩返しができた」
それは、母が願ったスケートそのものだった。
(ソチ・杉○貴浩)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022202000204.html
真央、自己最高で巻き返し フィギュア女子フリー
2014.2.22
女子のフリーが20日行われ、ショートプログラム16位と出遅れた
前回バンクーバー五輪銀メダルの浅田真央(中京大)はトリプルアクセルを決めるなど、
フリー3位で自己最高の142・71点を出し、合計198・22点で6位と巻き返した。
SP2位のアデリナ・ソトニコワがフリー1位の149・95点で合計224・59点を出して
逆転し、この種目でロシア勢初の金メダル。
SP首位がフリー2位の合計219・11点で2位となり、女子で史上3人目の2連覇はならなかった。
カロリナ・コストナーが3位に入り、フィギュア女子のイタリア勢で初の表彰台となった。
ロシアの団体金メダルに貢献した15歳のユリア・リプニツカヤは5位。
SP8位の鈴木明子(邦和スポーツランド)はフリー8位の合計186・32点で前回と同じ8位、
SP15位の村上佳菜子(中京大)はフリー12位の合計170・98点で12位。
◆失敗…21時間後決めた
一気に涙があふれた。すぐ笑って、また涙。
やり遂げたばかりの演技がただただ、うれしいから。
「やったという気持ちが強かった。
たくさんの方から笑顔が見たいとメールが来ていたので、うれし泣きと、笑顔と」
ついにトリプルアクセルを決めた。全体的にも目指してきた演技ができた。
ジャンプが1つも決まらず、ぼうぜんとしたSPとは「天と地の差があった」。
たった21時間ほどで自分を取り戻した。
ショックから覚めていなかったのか。
起きるのが遅れた浅田は、朝8時35分からの練習に1分ほど遅刻した。
3回転ジャンプでミスが相次ぐ。
「ボーッとしていたから声をかけた」と佐藤コーチ。
70点ほどのSPに比べて、フリーは140点ほどの点数が出る。
「まだ3分の2残っている。気合を入れて」
1980年レークプラシッド五輪でのエピソードも語り聞かせた。
教え子が熱で2日間寝込んだが
「リンクで倒れたら絶対に助けに行くからと言ったら、人生で1番の演技ができた。
だから頑張れるよ、と」。
浅田も
「私は熱もないから、できないことは絶対にない。練習してきたことを信じれば大丈夫」。
選手村に戻ってからも体を動かし「よく寝て、お赤飯を食べた」。
フリーのリンクには自信を取り戻して立っていた。
根っからのアスリート気質。SPに悔いは残る。
「したかったのは昨日のような演技でなく、きょうのような演技。
でもそれが自分らしさだと受け止めて」
7歳から憧れた五輪の舞台を集大成と位置付けた。
「スケート人生の喜びや悲しみ」をテーマに滑った23歳の浅田。
人生はすべてがうまくいくわけではないと分かっている。
今季限りでの引退を示唆している。4年後を想像できるか問われると
「バンクーバーでは悔いを残したので、今回はとにかく悔いなく。
リベンジできたので、その後のことは今は考えていない」。
ただ、うれしさが胸を満たしている。
(海老○徳馬)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022202000211.html
これが真央の強さ 3回転以上8本
2014.2.22
現役の女子トップ選手でただ一人トリプルアクセルを跳ぶ浅田のフリーには、
3回転以上のジャンプが全6種類、計8回組み込まれている。
今年に入ってから、当初「自分にできる最高レベル」と考えていた
トリプルアクセル2本の構成から変更した。
8回成功させれば、女子のシニア選手としては初めての快挙となるはずだったが、
うち2回は回転不足となり、ルッツはエッジの踏み切り違反と判定された。
だが、それだけの構成に挑めること自体が浅田の技術の高さを物語る。
現在の女子シングルでは、ジャンプの質を高めて出来栄え点を積み上げようとする
選手が主流を占める。
トリプルアクセルは浅田しか跳べないと同時に、跳ぼうとするトップ選手がいない技でもある。
女子にとってはそれだけ難しく、挑戦へのリスクが大きい。
浅田が大技を成功させたこの日も、佐藤コーチは
「恐らくいろんな批判もある。
コーチとしてトリプルアクセルを入れるのがいいか悪いか、冷静に考える必要はある」と話した。
ジャンプの難度が下がれば、他の要素により多くの練習時間を割ける。
実際、昨季は佐藤コーチの勧めでトリプルアクセルを回避し、
ジャンプの精度を上げることで結果を出した時期もある。
完成度を高めることに力を注げば、出来栄え点のアップが望める。
一方の男子は、一時期跳ぶ選手が減っていた4回転がなければ戦えない時代を迎えている。
ソチを制した羽生結弦(ANA)は2種類の4回転を跳び、ほかのジャンプも出来栄えの評価が高い。
いずれ、女子でもトリプルアクセルや4回転の時代が来ると予想する声もある。
バンクーバー五輪以降、滑りの改善に取り組みながら当たり前のように
トリプルアクセルに挑んできた浅田は、ある意味で時代を大きく先取りした存在とも言える。
(海老○徳馬)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022202000210.html
真央、愛らしく エキシビション
2014年2月24日
【ソチ=海老○徳馬】
フィギュアスケートの上位選手によるエキシビションが22日にあり、
日本勢では男子で金メダルに輝いた羽生結弦(ANA)や女子6位の浅田真央(中京大)らが
華やかな演技で五輪競技を締めくくった。
仙台出身の羽生は3年前の東日本大震災で被災した後、最初に出演した神戸での
チャリティーショーで滑った「白鳥の湖」を3分弱で演じた。
「短い中に震災から立ち上がっていく姿を連想して見てもらえたらな、と思う」と
復興への思いを込めた滑りを見せた。
金色の衣装をまとった浅田はチャプリンの映画テーマ曲で軽やかな「スマイル」を披露。
男子5位の町田樹(関大)と6位の高橋大輔(関大大学院)も出演し、観客から大きな拍手を浴びた。
エキシビションに出演した浅田は6位に終わった五輪を
「メダルという結果を残せずに悔しい気持ちはあるけれど、特別だった」と笑顔で振り返った。
前回バンクーバー五輪ではショートプログラムでほぼ完璧な演技を見せたが、
フリーでジャンプにミスもあり銀メダル。
今回はSPで16位と大きく崩れながら、フリーではトリプルアクセルを決め、
自己最高点をたたきだした。
「フリーは人生の中で最高の演技ができた。
バンクーバーと二つ合わせて、私の中では最高の五輪だったなという気持ち」と喜んだ。
今後は世界選手権(3月26〜29日・さいたまスーパーアリーナ)に出場する。
昨年4月に今季限りで現役を退く意思を表明しているが、
「来季はわからないけれど、やらないとしたら、
世界選手権まで時間がないと思うと少し寂しい気持ちがある」と複雑な心境を明かした。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/sochi2014/article/CK2014022402000204.html
そして すっかり どの 真央ちゃんが どの 記事に か
ごめんなさい わからなくなってで
やっぱり お母様に 敬意を ほんとに 素晴らしいお母様だね
はじめての シニア 中国杯に 向かわれる時の 真央ちゃんと 送り出してのお母様
団体戦
練習
SP
FS
真央ちゃんの記録 こちらは ちがうところから
世界選手権 はやく 記載しなさいよと 某新聞社に つっこみながら
なんべん みても すごい戦歴だね 真央ちゃん ずっと がんばられてだものね
そして やっぱり ソチオリンピック らふ真央ちゃんの演技と ともに
紹介を
もすこし 大き目
そして 今日は ワールドの のくまおちゃんも 一緒に
もちっと 大き目
動画主様 真央ちゃんあい ありがとうございます
真央ちゃん 今日は 東京で SOIの日 公演の中で ギネスの 授与式と だね
移動も 大変だものなぁと 思いながらも 真央ちゃん 今日も がんばれ